おき薬紹介シリーズ 6
子供の薬
**はじめに**
・配置売薬のデザインに多いものの一つに“子供”があります。当然子供の薬のパッケージですが、今回は江戸期から近代の配置売薬にいたるまでの“子供”にまつわる様々な資料を御紹介いたします。
・最近の報道によりますと2002年の日本の出生率は1.32と過去最低になったとのことで、戦前の“生めよ増やせよ。”とか“戦後のベビーブーム”は遠い過去の話しとなりました。
・我国の人口は、古くは弥生時代には60万人位でしたが、3世紀から7世紀の初頭にかけての古墳時代には水稲耕作の発展による食料生産技術の向上により500万人へと急増しました。
その後江戸時代に至るまでに序々に増え、江戸期には3000万人位で推移しておりましたが、明治期に入りますと大きく急増し1900年(明治33年)には4800万人となり、さらに100年後の現代2000年には1億2692万人となりました。
しかしながらここにきて小子化による出生率が過去最低となったことから2006年には日本の総人口は減少を始め、50年後には約9000万人、この一文をお読みのほとんどの方が亡くなられる100年後には現在のほぼ3分の1の約4400万人、江戸期~明治はじめの頃の人口になるものと予測されております。
・人口の増減は食料生産の向上や飢饉、疫病の流行、戦争などに影響を受けますが、人口がほぼ一定した江戸期の日本人の平均死亡年齢は男女とも27・8歳前後で飢饉、疫病の流行期には17・8歳であったとの記録があります。
現代からすると異常な低さですが、この平均死亡年齢は零歳における平均余命で、この異常な低さをもたらしたものは乳幼児死亡率の異常な高さにありました。
この時期の乳児(零歳児)と幼児(1~5才)の死亡率は全死亡率の70~75%も占めており、こうした乳幼児の大量死亡が江戸時代の特に農民の平均寿命を28歳前後に押し下げていたわけです。
・しかしながら乳幼児の死亡を除外してみますと江戸時代の60歳の日本人の平均余命がほぼ14歳というデータがあり、高度医療、終末期医療の発達した現代と比較しても決して比較にならない寿命ではなかったと思われます。
また江戸時代には80・90歳の高齢者も多く、安永5年(1776年)には江戸で100歳前後の高齢者が10人以上もおり、寛政7年(1795年)の記録では越中富山の五箇の庄では100歳以上の老人がままあり、80歳以下では夭折(ようせつ;若死)といわれていたとの記録があります。
有名人は比較的恵まれていた生活をしていたとしても“養生訓”の貝原益軒は85歳、“蘭学事始”の杉田玄白も85歳、“南総里見八犬伝”の滝沢馬琴は82歳、“富嶽三十六景”の葛西北斎は90歳まで天寿をまっとうしております。
・まず江戸期から明治期にかけての小児薬の解説書を御覧下さい。
江戸時代文政3年(1820年)の『商人買物獨案内』(大坂)にも紹介されている小児薬“小児龍子丸”の解説書で播州(播磨の國、今の兵庫県の一部。怪談播州皿屋敷で有名。)で作られ、京の三条松原通や江戸の京橋銀座などで売られていた小児の薬です。表紙や内容の一部を御覧下さい。(薬料壹服百銅)
“小児龍子丸解説書”(江戸期 文化7年・1810年)
江戸時代、千住大橋南詰で作られ同三ツ角が元売り店の、江戸日本橋や本所、本郷、京都四條、大坂四ツ橋で売られていた小児薬です。
表紙や内容の一部を御覧下さい。(一粒価銀壹匁)
かんの妙薬 “小児活生丸解説書”(江戸期)
天保2年(1831年)の『商人買物獨案内』(京都)にも紹介されている江戸文化4年(1807年)から京都五條橋の石田家で販売されていた小児むしの薬『脾肝薬王圓』の明治期になってからの解説書で、“小児養育心得”と題して詳細な子供の保育、育児について心得、指導が書かれています。
『脾肝薬王圓』解説書“小児養育心得”(明治11年(1878年))
・つぎに・・江戸期から・明治期あたりにかけての当時の子供達の描かれた小児薬を幾つか御覧下さい。
・黄驚風丸(ごおうきやうふう丸) [驚風とは熱病でひきつけて脳を冒される病態を指していたようで、本間玄調は『内科秘録』(元治元年・1864年)で“驚風は小児必有の病にして免るることを得るもの甚(はなはだ)稀なり。凡そ痘瘡、麻疹、中暑、痢病等にて発熱するときは必ず驚を発するものなり。”と述べております。] |
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・疳妙薬 かんふ圓 [五疳とは前記『内科秘録』においては“疳は小児の病の尤(もっとも)多きものなり。”その病因としては“その病因軽きものは脾胃の不和、重きものは脾胃の衰弱なり。飲食は勿論乳を過哺するときは皆疳を発す。”と述べており、室町時代のころから疳には肝疳、心疳、脾疳、肺疳、腎疳の五症つまり五疳があるとされてきました。現在それらが何かを正しく断定することは困難ですが、消化不良、自家中毒、小児脚気、小児結核、夜驚症、寄生虫症など様々疾患が疳に包括されていたものと思われます。] |
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・大熱さまし救命丸 [救命丸については宇津救命丸を中心に後日触れたいと思いますが、幼児が押さえているのは蛇ではなく虫、つまり疳の虫で、虫封じの効力のあることを示しています。以上のように驚風・五疳・虫が江戸期までの乳幼児の命を奪った三大病因だった訳です。]まとめとして中国明(みん)の時代の医家の言葉を紹介したいと思います。
“十の男子(:男ということ)を治するとも一の婦人を治しがたく、
十の婦人を治するとも一の小児を治しがたし。” |
・いわゆる人工栄養、人工乳は大正に入って発売されましたが、そのうちオーストラリア・メルボルンから輸入していた製品にラクトーゲンがあります。その大正10年(1921年)3月20日付の大阪朝日新聞の新聞広告の裏面を御覧下さい。
広告の描かれた表面は後日ミルク、哺乳瓶等と一緒に解説いたしますが、多分ラクトーゲンを飲んで育った子供達の投稿写真と思われる顔写真であふれています。 明治維新の1868年から約半世紀でずいぶんと子供達を取り巻く医療、衛生、経済・・・の環境が激変したことに驚かされる次第です。 それにしても大正時代は戦争の影も少なく、現代と比べてもずいぶんとモダンな子供達も多く大事にされていたことにも驚かされます。(これらの子供達が今もご健在ですと80歳半ばの御老人となられております。) |
( 縦52.8cm × 横 36.8cm ) |
( 上のポスターの裏です )
・さらに時代が下って戦前の昭和期の子供をあしらったポスターを御覧下さい。
かの女優原節子似の絵です。(左側のポスター)
・最後に戦前から戦後にかけて子供達をデザインした配置売薬を御覧下さい。
左端の夢憂(無憂?)の子供を御覧下さい。当時の児童の服装を垣間見ることが出来ます。
( 縦38.5cm × 横 13.3cm ) |
( 縦48.7cm × 横 17.6cm ) |
では今回はこの辺で終わらせていただきます。
(本項目参考文献)
・江戸病草紙 立川 昭二
・お産の歴史 杉立 義一
・日本人の病歴 立川 昭二
・近世日本薬業史研究 吉岡 信
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