ホーム ≫ 新撰組と薬剤師 石田散薬の謎
新撰組副長・土方歳三は薬剤師だった?
新選組副長・土方歳三は、多摩石田村(現在の日野市石田)の裕福な農家・土方隼人義諄の末っ子。
父は歳三が生まれる前に他界、母も六歳のときに他界し、歳三は次兄夫婦に育てられました。
二度ほど丁稚奉公に行くものの、逃げ出して帰宅したり、色恋沙汰で逃げ出して帰宅 > 色恋沙汰で逃げ出して帰宅 > 結婚を勧められても志しのために断りを入れる > 結局実家に居候。気がつけば二十歳も近い年頃。現代で換算すると、三十歳前後で定職に就かずに実家で暮らすようなものでしょうか。
新撰組以前の歳三は、百五十年ほど時代の先をいくパラサイトぶりを発揮していたのです。
これぞまさしくバラガキ。 さて、歳三は四才年上の姉「のぶ」に可愛がられていました。 のぶの嫁ぎ先は、石田村のとなり日野宿の、寄場名主である佐藤彦五郎のところ。 彦五郎はこの地に天然理心流の剣術道場をひらくなど、新撰組や歳三が後に活躍する土台を作った存在です。 土方家と佐藤家には共通点がありました。 両家とも、副業として医療・薬品を得意とする家系だったのです。 土方家は、歳三のおじさんと三番目の兄の大作(良循)が医者。佐藤彦五郎は、コレラの流行時に私財をなげうって薬の調達をしたという逸話があり、幕府から謝礼金も出ています。 そんな双方の家に「石田散薬」「虚労散薬」という家伝の秘薬がありました。 「石田散薬」は痛み・うちみの薬。 「虚労散薬」は呼吸器系の薬。 土方歳三は、剣術修行をしながら、これらの薬を背負って行商をしていました。 その販路は多摩のみならず、信州にまで及んだといいます。 薬を売る土方歳三こそ、薬剤師免許も薬種商免許もありませんが、幕末の薬剤師?かもしれません。 でも、今やったら、薬事法違反に問われますので、真似しないで下さいね。 |
土方歳三肖像 |
幻の秘薬・石田散薬とは?
石田村の散薬だから石田散薬。
判りやすいネーミングです。
創薬は、土方家の伝承いわく、「宝永年間1700年頃に、夢枕に立った河童明神から教えてもらった」そうなので、河童、らしいのですけれど・・・。 いろいろな効き目がありそうです。
酒で飲まないと効かないのだそうです。
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牛革草 ~石田散薬の原材料~
歳三の実家から歩いて2、3分で多摩川の支流である浅川の河原があります。
石田散薬は、そこに生えているタデ科の牛額草(葉が牛の額の形に似ているから。
別名ミゾソバ。葉の形がソバの葉に似ていて、溝のような湿ったところを好むことから。
葉の形が牛に似ているからと牛革草とも呼ばれることもあります。
食用にも幅広い用途。天ぷら、おひたし、胡麻和え、佃煮、油炒めに。
一株あれば、次の年にはあっという間に群落です)を原料にします。 牛額草は、全国各地にみられます。 浅川だけにあるわけではないのですが、石田散薬に関しては、浅川で採れたものを使用する慣習になっています。 この牛額草の刈り取りは何故か、平賀源内が作った「鰻蒲焼を食する日」で有名な「土用の丑の日」限定です。 石田村総出の刈り取りの指揮は歳三の仕事で、非常に人使いがうまかったということです。 |
牛革草の群生(浅川) |
「石田散薬」の作り方
石田散薬の作り方は、以下の通り。シンプルです。ただし、すごく時間がかかります。
つくりかた
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石田散薬製造機(手動式) |
果たして本当に効いたのか?
謎です。はっきりしません。 薬草としては茎・葉が切り傷の際の止血、リウマチに使用されるようです。 石田散薬は、昭和二十三年ごろ、薬事法改正に伴う製造販売許可申請における成分検査により、「無効・無害」という結果が出たということです。 今でも土方歳三資料館には製造中止した頃の石田散薬がわずかに現存するのですが、土方家の方いわく、「古くて怖くて飲めない」とのことです。 不思議な薬「石田散薬」。まだまだ浪漫あふれる謎を秘めているような気がします。 |
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