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薬と歴史シリーズ 2

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~ 宗 教 と 薬 1 ~

  • 前回は古い時代の処方箋を紹介いたしましたが、今回は引き続いて薬と歴史(古資料・古文献・古書散策)シリーズと題して、歴史的な背景とか流れが感じられる品々をご紹介して行きたいと思います。

  • 今回と次回は“宗教と薬”にまつわる品々です。なお特定の宗旨に片寄らないように広く紹介をしたため長文となりましたことを御了承下さい。

  • 初めに、日本人の宗教の多くを占める仏教の開祖釈尊(仏陀・釈迦牟尼仏・お釈迦様)の残された数多(あまた)の教えを後世に文書化した経文(経典)は、一説によりますと八万四千もあるといわれております。そのうち帝王経、正法といわれ聖徳太子の昔から重んじられた『法華経(妙法蓮華経)』は28品(28章)から成っておりますが、第5章にあたる薬草喩品第五では薬草の効き目に例えて教えが説かれ、さらに第23章の薬王菩薩本事品第二十三では次のようなことが書かれております。

    “『法華経』は全世界の病める人の良薬であって『法華経』を信じれば病はなおり、不老不死になるであろう。・・・”

  • また和銅5年(712年)に選述された『古事記』と養老4年(720年)に完成した『日本書紀』には、我国の医薬の祖は大己貴神(おおなむちのみこと)と少彦名神(すくなびこなのかみ)であることが書かれており、大己貴神は別 名大国主神(おおくにぬしのかみ)などとも呼ばれ、『古事記』では因幡の素兎(しろうさぎ)の傷を蒲(ガマ)で治療したことが記されております。

  • 飛鳥時代の推古天皇の10年(602年)には、百済から僧侶であり且つ暦書や天文そして医術にも通 じていた僧医観勒が来朝、また同16年(608年)には医術を学ばせるため薬師(くすし)恵日(えにち)を随に遣わしており、この推古天皇の15年(607年)には法隆寺と薬師如来像が完成しています。

  • 奈良時代、6回にわたる遭難をへて来朝した唐僧の鑑真和尚は医術、薬物にも精通 し、遭難による労苦のため62歳の時に失明しましたが、鼻で薬物の真偽、精粗を弁じてひとつも過ちがなかったと伝えられております。

  • また奈良東大寺の正倉院宝庫には大陸より伝わった麝香、犀角、竜骨、人参、大黄、厚朴、甘草、密蝋などが修められています。

  • 以上は遠い昔話のような話しですが、このように医薬と宗教・寺院・僧侶…とは古代より深い関係があったわけです。しかしながら時代が近代となり江戸から明治の御一新のみよ御世に移りますとそれまでの秘法、秘伝、神仙、霊薬、神伝など呼称は非文明的ということで認められず、医薬品の製造販売も改めて官許(;太政官が許可したという意味。)名の下に明治新政府の許可が必要となり、またこの頃には太田胃散、中将湯、仁丹など多くの新製剤も生まれました。

  • しかしながら現代にも伝わる伝統薬の中にも、例えば宇津救命丸は旅の僧侶が助けられたお礼に処方を教えたものというように近年に至るも宗教的な残渣の強くにおう薬は数多くあり、今回紹介するコレクションはこのような特に宗教と縁の深い薬たちを集めてみました。




1. 百草&陀羅尼助

  • 信仰と結び付いて現代でもなおしっかりと息づいている薬の代表的が(お)百草(ひゃくそう)と陀羅尼助(だらにすけ)です。
百草&陀羅尼助 百草&陀羅尼助 百草&陀羅尼助

  • これらの(お)百草と陀羅尼助は主剤はキハダ、黄蘗(黄柏)の樹皮でその主成分はベルベリンです。各地にこの黄柏を主剤にしてゲンノショウコ(現の証拠)やセンブリ、ガジュツ(莪朮)、ゲンチアナ、竜胆、クジン(苦参)、ニガキ(苦木)、青木などの苦味健胃剤を加味した製剤が伝わっておりますが、まず第一が“木曽のナー 中乗りさん 木曽の御岳(御嶽)さんはナンチャラホイ 夏でも寒い ヨイヨイヨイ ・・・”の木曽節 で有名な信州木曽御岳(御嶽)山に伝わる(お)百草です。

  • この御岳という名称の山は(後程紹介の武蔵國の御岳山はじめ)全国に多く山がありそれらはミタケと呼ばれていますが、この木曽の御岳だけはかつて王嶽、王の御嶽と尊称されていたことからオンタケと呼ばれています。

  • 日本に伝来した仏教は古代より伝わる山岳信仰と混和して独自の修験道(しゅげんどう)を生み出しましたが、その行者、修験者、修験僧、山伏により伝えられそして御岳(御嶽)信仰の広まりとともに中仙道を中心にして全国にも広がった薬が“百の病を治すことが出来る”(お)百草でした。

黄蘗(黄柏) 現在黄蘗(黄柏)単味の製剤は木曽の「百草」(板)と鳥取県日野郡の加藤製薬所の「煉熊」だけとのことですが、これは純粋のオウバクエキスはきわめて粘着性が高く成型しにくく、かっては竹の皮で包んでましたが、流通が発達し需要が高まりまた飲みやすさの点などから丸薬が必要となると、上記のように他に苦味健胃剤を加味した丸薬製剤が多く作られた訳で、次に紹介します陀羅尼助もかつてはオウバク単味エキスだったと考えられております。 黄蘗(黄柏)

陀羅尼助(だらにすけ)とは変わった呼び名ですが、陀羅尼というお経を読む際に、苦行僧でも眠くなるので、その眠気ざましに舐めて眠気を追い払ったので陀羅尼助という説があります。この説そのままですとあまりありがたみが感じられませんが、最も権威的な説話によりますと今より1300年以上昔の奈良時代に活躍した修験道の元祖、役小角(えんのおづぬ )=役の行者が陀羅尼助の開祖といわれております。一説によりますと飛鳥時代(657年)の頃、藤原鎌足の腹痛を治したのもこの役の行者といわれております。

陀羅尼助(だらにすけ) 陀羅尼助(だらにすけ) 陀羅尼助(だらにすけ)

その製造にあたっては加持祈祷をして霊力を高めますが、叡山陀羅尼助丸には次のようなことが書き添えられております。
“比叡山には伝教大師さまが植培された薬草の宝庫があり・・・この叡山陀羅尼助丸は貴重な薬草を有効に活かして御大師さまの御誓願に沿い奉るよう根本中堂御本尊薬師如来の御宝前において「無病息災」「身体健全」「延命長寿」を加持祈祷したものであります。
天台宗総本山比叡山延暦寺”
陀羅尼助(だらにすけ)
陀羅尼助(だらにすけ)
(縦16 cm × 横27 cm)
  • これは大和國当麻寺(たいまでら)に伝わる陀羅尼助の由来を伝えた古文書で(同寺の霊宝館にあるものと同じもの。)、当麻寺以外にも奈良県大峯山や比叡山延暦寺はじめ各地に陀羅尼助が伝えられております。



2. 高野不思議圓

  • 「1」では伝教大師最澄の天台宗比叡山延暦寺に伝わる陀羅尼助を紹介いたしましたが、お大師様といえば弘法大師空海がおられます。真言宗高野山金剛峯寺にまつわる高野不思議圓を紹介します。

  • その発売の趣意には“明治14年10月5日生れの我が子金太郎は病弱であったが、ある夜から七晩立て続けにお大師様が枕元に立たれこの藥を飲めと告げられ、紙に書かれたその処方を公立新負病院の院長に見せると賞賛され服用させたところ一週間にして全快、その夜再び枕元に立たれたお大師様が速やかに全国の患者を救助せよとのお告げにより発売したものである云々。”
    〔明治28年(1895年)3月作成の能書による。〕

高野不思議圓
高野不思議圓



3. 成田山一粒丸 + 石版絵図 + チラシ

  • 新年の初詣で関東において明治神宮、川崎大師とともに参拝客の多いお寺が成田山新勝寺です。大きな寺社の前には市(いち)が出来、それが門前町へと発展、そこではその寺社にちなんだ名産品が売られるというパターンが多く見られますが、その代表が浅草寺の仲店やこの成田山です。

  • 成田山一粒丸には幾つかの同名品があるようですが、同名で元祖、本家、総本家、正本家、本舗、総本舗、本店、総本店…を争うところは温泉饅頭などと同じようです。

成田山一粒丸 成田山一粒丸 成田山一粒丸

成田山一粒丸
成田山一粒丸
成田山一粒丸

  • なお大判の成田山の絵図(明治36年版 45×63cm)には安永六年(1777年)から売り出している成田山一粒丸などの家伝薬の宣伝とともに、効験の著しいことから類似品を旅人宿へセリ売する者があるので云々のご注意が書かれています。

成田山絵図

成田山絵図のさらに古いもの
成田山絵図



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