薬と歴史シリーズ 6
~ 薬と菊の御紋 ~近年政治家の靖国神社参拝をめぐって騒々しい状況が続いておりますが、今回の連載は久し振りの「薬と歴史シリーズ」で“薬と菊の御紋”を取り上げてみました。
いわゆる“菊の御紋”とはご存じのように御皇室、天皇家の家紋で、正確には花弁が16枚の十六弁文様(十六の重弁)の紋章です。
他に菊を使った紋章としては、南北朝時代(1336年~1392年)に後醍醐天皇の勅(天子の命令を伝える文書のことで、みことのりとも言う。)を奉じて挙兵し鎌倉幕府軍を打ち破り、後に湊川にて足利尊氏に破れ戦死した河内の武将、楠正成(大楠公と呼ばれる。)の紋所の“菊水”の紋章などがあります。
本項で日本酒の銘柄“ふなぐち菊水”の事を解説したいのではありませんが、日本酒“ふなぐち菊水”の商標には“菊水”様の紋所が使われています。
またこの“菊水”の言葉を使った例には、日本酒ばかりでなく先の大戦(大東亜戦争・太平洋戦争)末期に於いて敗色の濃くなった日本海軍が昭和20年4月に沖縄作戦に当たって立案した特攻作戦“菊水作戦”の名称があります。
つまりは大義(君国にたいして臣民のなすべき。)に奉ずるため、生死にとらわれることなく、あえて負け戦に挑んだ当時の状況、その精神が楠正成のそれと一致するためだったということでしょうか。
“菊水作戦”では海軍機延べ8000機(うち特攻機2000機)〔+陸軍機延べ2000機(うち特攻機700機)〕と戦艦大和他の連合艦隊生き残りの艦艇が作戦に参加しましたが、戦艦大和は7日には航空攻撃によりあえなく撃沈されてしまいました。(なお大和をはじめとする海軍の軍艦は舳先には菊の御紋章がつけられていました。)
どうも菊の御紋章とか天皇というと戦争がらみの話になってしまいますが、紀元前660年の神武天皇以来、今上天皇(:当代の天皇のこと。)で125代も続く歴代天皇家の歴史の中で、武家の時代特に徳川幕府の世にあっては公家諸法度のもと、公家の棟梁(かしら)とも言える天皇家はじめ公家たちはひどく冷遇されました。
当時の天皇家の石高は最下位の大名並の二万石程度で、この石高でもって天皇家は170軒ほどの公家たちを扶持(ふち:いわば給与を支給すること。)してゆかねばならず、その他の賄(まかない)料を合わせても天皇を頂点とするいわば京都藩・公家藩は4万石以下の財政状態で、つまりは江戸期の公家たちは平均的にみて諸国の藩のお徒士(おかち)や足軽程度の暮らし、やっと生活している程度だったようです。
よって公家たちはカルタの絵を書いたり遊芸の免許状の発行料の手数料をとったりするアルバイトをせっせとしたようで、また何かの本で読んだ記憶があるのですが、かの明治天皇は維新前の江戸時代にあっては魚は臭い物、お酒は酸っぱい物と思っていた(腐りかけたり、醗酵しかけていた。)との事です。
つまりは天皇を頂点とする一般のお公家様たちは“貧乏公家”という言葉に代表されるように気位や格式、官位は高いが力つまり権力はもちろん財力も気迫も無い京都の中にだけに閉じ込められて宮廷のまわりで生活するだけ(公家たちには旅行の自由がなかった。)の存在だったようです。
ところが時代が一変して1868年の大政奉還、明治維新によって士農工商に代表される身分制度、封建制度の江戸徳川幕府が崩壊すると、それにとって代わる統一国家のシステムとしてとられたのが天皇を頂点とする一君万民というシステムでした。
この引札(引札とはチラシ、ポスターのようなもので後日まとめて御紹介いたします。)は、維新の御世となり士農工商の身分制度にあった庶民が解き放たれ一致して文明開化の世を走る図で、明治初期のものと思われます。
工農
商
以上のような歴史的背景をもとに薬の世界を見ますと、江戸期においては菊の御紋を格式、威厳の象徴として(正式には)御所、宮中に献金をして菊花の紋章そのものを、あるいはちょっと変えたりして、果ては献金もせず勝手に16枚に近い枚数の菊の御紋的な紋章を看板やチラシ、薬袋にデザインして、その薬の箔(ハク)付けをしたようであります。庶民や下々が格式や権威、肩書きに弱いのは今も昔も変わらないようです。
ではコレクションの中から菊の御紋を彫り込んだ様々な江戸期の看板やチラシ、薬袋をご覧下さい。
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上の看板6“ 人参三臓圓 ”のチラシ(A) |
上の看板6“ 人参三臓圓 ”のチラシ(B) |
以上のような菊の御紋を使った商品は明治期になりますと、ケシカラン、皇室を軽んじる行為ということで禁止になってしまいました。
まず明治3年(1870年)の“賣藥取締規則”の制定では旧来の「勅許」「御免」などの文字を冠したり「神仏・夢想・秘方」などと称することが非文明的ということで禁止され、また明治10年(1877年)の制定の“賣藥規則”以降は官許の印(:太政官や政府の管制に定めるところの所管の役所、内務省などが許可したということ。)がすべての売薬に入ることになります。
最後に御紹介します引札は明治天皇のお后の昭憲皇太后(美子妃)をモデルにしたと思われる引札で、正式に皇室を宣伝に使用することが禁じられる以前の明治初期に作られた引札です。(以上は骨董屋A氏の弁。正式な禁止された年代は目下調査中です。)
以上、今回はこのへんでおしまいにします。
〔参考文献〕近世日本薬業史研究 | 薬事日報社 | 吉岡 信 |
広辞苑 | 岩波書店 | |
目で見る くすりの博物誌 | 内藤記念くすり博物館 | |
幕末明治 美人帖 | 新人物往来社 | ポーラ文化研究所 |
日本歴史を点検する | 講談社文庫 | 司馬 遼太郎 海音寺 潮五郎 |
歴史と視点 | 新潮文庫 | 司馬 遼太郎 |
日本史探訪 22幕末維新の英傑たち | 角川文庫 | |
日本海軍がよくわかる事典 | PHP文庫 | |
散歩の達人(2003・5) | 交通新聞社 |
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