ホームおくすり博物館今は昔 売薬歴史シリーズ

今は昔 売薬歴史シリーズ 2

命の母・中将湯・七ふく へ ≪  ≫ 浅田飴・ヴィックス へ
~ 太田胃酸・星胃腸薬・AM散 ~


前号に引き続き今も根強く人気の続く伝統薬の“今と昔の姿とその良さ”を伝えるシリーズその弐、今回は胃薬の (1)太田胃散 (2)ホシ胃腸薬 (3)つくし胃腸薬 を紹介いたします。


2-(1).太田胃散 = 『太田胃散』

  • いろいろな昔の薬コレクションをご紹介してきました連載、本号で80号となりますが、№9号〔平成15年5月号〕では“はらいた薬”を紹介いたしました。
    そのなかでこの『太田胃散』について触れました。一部重複しますが再掲し、また加筆をして昔と今の『太田胃散』をご紹介したいと思います。
  • 『太田胃散』は今から130年近くも昔の明治12年(1879年)に官許を得て発売された伝統薬で、この『太田胃散』を創製した太田信義は天保8年(1837年)に現在の栃木県の一部の鳥居藩の代官の第五子の生れで、槍術御指南番を勤めるかたわら江戸に派遣され水戸藩などとの交流を深める…そのようなことをしていたようです。
    明治維新の3年後の1871年に行われた廃藩置県のあとは太田信義は高等官吏として三重県四日市の港湾整備などにたずさわっておりましたが、活性化する経済情勢を目の当たりにして明治11年(1878年)には官職を辞して東京で出版業を始めました。
    太田信義は江戸時代の歴史家頼山陽の子息と交友があり頼山陽の著作「日本外史」などの出版を行ったようです。
    しかしながら今でいうトラバーユ・転職はうまくゆかずストレスにより胃病を患い、大阪出張の折に胃痛をおこし、かの名医緒方洪庵の娘婿の緒方出斎医師の診察を受け治癒しました。
  • その時与えられた薬の処方を後に譲り受け、出版業のかたわら胃散元祖太田製として売り始めた胃薬がこの『太田胃散』なわけで、当初の名前は信義の雅号から称した『雪湖堂の胃散』という名前だったとのことです。
    緒方出斎医師によればこの処方の原形は文久2年(1862年)にオランダより来日、医学校の教師となり多くの後進を育てた一等軍医ボードインが伝えたものといわれております。 その処方薬の原料はほとんどが当時の英国植民地のアフリカ、セイロン、中国などから取り寄せたもの〔チョウジ、ニクズク、ウイキョウ、ゲンチアナ、ニガキ…〕などで今で言う芳香性苦味健胃薬、つまりスパイスと共通しており結局独特の芳香『太田胃散』は西洋の植物療法の伝統に基づく肉食が多い西洋人の胃薬として適した薬ですが、その処方は微妙に変化はしているようですが、基本は変わらず今日も胃腸薬で販売数量ナンバーワンとの事、超ロングセラーの記録を伸ばすことは確かなようです。
    急速に西欧化の進んだ文明開化の当時はもちろん現代の西洋化した食生活に伴う胃のトラブルにも良く効くことがうなづける粉末の胃薬です。
  • では消化器の解剖図が登録商標の明治時代の『太田胃散』はじめ現代までの『太田胃散』のパッケージをご覧下さい。

外装
太田胃散
内身(紙の筒状)
太田胃散

太田胃散

太田胃散

太田胃散

太田胃散
現在の太田胃散
太田胃散
【おまけ】
(1)[昭和9年(1934年)・12年(1937年)当時の東京大學野球リーグの対戦表]
東京大學野球リーグの対戦表 東京大學野球リーグの対戦表 東京大學野球リーグの対戦表 東京大學野球リーグの対戦表 東京大學野球リーグの対戦表
(2)太田胃散のおまけで配られた[大東京絵葉書]
大東京絵葉書 大東京絵葉書

大東京絵葉書 大東京絵葉書

大東京絵葉書 大東京絵葉書

太田胃散 太田胃散

太田胃散

2-(2).ホシ胃腸薬 = 『ホシ胃腸薬』

  • 本号で引き続き御紹介しますのはやはり胃薬の『ホシ胃腸薬』です。
  • 『ホシ胃腸薬』の製造メーカー、星製薬の創業者の星一(ほしはじめ)については星薬科大学の創立者でもあり、SF・ショートショート作家の星新一の御尊父でもあり、その膨大な業績や人生を専門に研究し記録する研究者もいる程です。
    星製薬にまつわる諸々のコレクションについてはいずれ項を改めて触れるとして、今回は『ホシ胃腸薬』そのものに限定して御紹介させていただきたいと思います。
  • 明治6年(1873年)に福島県の現いわき市の農家に生まれた星一は、東京の商業学校を卒業後、アメリカのコロンビア大学に留学しました。 当地ではかの野口英世と出会い、トーマス・エジソンとも交流を持ち、さらに伊藤博文、新渡戸稲造、後藤新平などとも親交を深め、これらの経験が星一を希代の実業家に育て上げたようです。
  • 12年間の渡米から帰国した星一は、事業を始めるにあたり大学で学んだ統計学を活用し、一か月にわたり新橋から上野にいたる商店街の調査、市場調査を行い、その結果候補に上がった業種が薬屋であったとのことです。
  • そこで門外漢ではありながらも友人の研究者より湿布薬「イヒチオール(イヒチオールスルホン酸アンモン)」の権利を買い取り製薬会社“星製薬所”を設立しました。
    その後明治44年(1911年)には東京の大崎に工場を設立、最盛期には国内にチェーンストア方式の特約店を38,000店も組織したり、また工場内には診療所、幼稚園、図書館なども設置、大正10年(1921年)には星製薬商業学校(星薬科大学の前身)を設立しました。
  • 星製薬の製造した医薬品は100種類を上回るとのことですが、星製薬の代表的製品がこの『ホシ胃腸薬』通称“赤カン”で、創業当初は売り上げの半分以上も占めていたようです。
    現在の『ホシ胃腸薬』にはコロンボ末が加えられている以外は当時の処方、製剤と全く変らず、また赤色の缶とフタに描かれた星のマークのデザインも当時と変らない息の長い固定ファンに支えられた薬と言えるようです。
  • なお星一の波乱にとんだ人生の詳細は、星新一著「人民は弱し官吏は強し」などをお読み下さい。
ホシ胃腸薬
ホシ胃腸薬
大崎工場の絵
ホシ胃腸薬 ホシ胃腸薬
戦前戦後の
混乱期の製品か ホシ胃腸薬


ホシ胃腸薬


ホシ胃腸薬


ホシ胃腸薬

戦前の紙製の製品

いずれも戦前の製品でハングル文字でルビが書かれたり、大崎にあった工場の絵が描かれています。
現在星製薬株式会社は昔の工場跡地に立っているTOCビル内にあり、その経営は戦後ニューオータニなどを創業した大谷家に譲渡され、その(株)TOCの子会社となっています。
ホシ胃腸薬
現代の「ホシ胃腸薬」

ホシ胃腸薬 ホシ胃腸薬
写真に写っているのは星一本人と皇族(秩父宮殿下)です
ホシ胃腸薬 ホシ胃腸薬
ホシ胃腸薬 ホシ胃腸薬
布製「のれん」と紙製「のれん」

ホシ胃腸薬 ホシ胃腸薬 ホシ胃腸薬
[なお 五反田にありますTOCビルでは、年数回骨董市が開催されることがあります。]

2-(3).『つくし胃腸薬』= 『つくしAM散』

  • コレクターとは他の人から見るとあまり意味の無いことをしつこく調べ上げ、結果が判ると密かな喜びを感じる人種ですが、この『つくし胃腸薬』と『つくしAM散』の関係もそんなものかもしれません。
  • 医療用の健胃・消化剤の分野で現在もよく処方される粉末の薬品に第一三共株式会社の「SM散」があります。
    PPI(プロトンポンプ・インヒビター)まで普通のように処方される現代では時代遅れの製剤と言われそうですが、OTC的で三共胃腸薬のようでもあり、胃部不快感や胃もたれなどには確かに効き目もあり現代でも必要な薬ですが、SM散と同じくよく使われている健胃・消化剤に富山化学工業の『つくしAM散』があります。
  • 以前この『つくしAM散』の名前が何故『つくし○○○』なのか?疑問に感じたことがありました。 その後骨董市で富山の置き薬などのコレクションを集めているうちに配置売薬メーカーの一つに風邪薬“ピラ”などを製造している東亜薬品(:現在は商標をTOAとし後発品の開発に熱心でご存じの薬剤師も多いと思います。)という会社があることを知りました。
    この東亜薬品の商標が土筆つくし“つくし印”で、『つくし胃腸薬』という製品を作っていました。
  • 一方富山化学工業はもともと富山に本社があった会社で“トミロン”や“オゼックス”などの抗菌剤で有名ですが、この富山化学工業の関連会社として昭和15年(1940年)に設立された会社が東亜薬品だったわけです。
    ここでやっと富山化学工業の『つくしAM散』の“つくし”は関連会社だった東亜薬品の商標の土筆の“つくし印”からとったもので、昔の東亜薬品の『つくし胃腸薬』は『つくしAM散』の遠い先祖、親戚にあたることが解明されたわけです。(終り)

つくし
現在の医療用のつくしAM散
つくし
 つくし

 つくし
 つくし
 つくし
 つくし

 つくし
 つくし

 つくし



〔参考文献〕
・日本の名薬      山崎 光夫   東洋経済新聞社
・伝承薬の事典     鈴木 昶    東京堂出版
・日本の伝統薬     宗田 一    主婦の友社
・名薬探訪       加藤 三千尋  同時代社
・人民は弱し官吏は強し 星  新一   新潮社

〔現代の製品提供〕
・昭島市 十字堂薬局  荻野 祥子 先生


©一般社団法人北多摩薬剤師会. All rights reserved.
190-0022 東京都立川市錦町2-1-32 山崎ビルII-201 事務局TEL 042-548-8256 FAX 042-548-8257