ホームおくすり博物館薬と歴史シリーズ

薬と歴史シリーズ 10

軍隊と薬、防毒マスク へ ≪  ≫ 目薬の変遷 2 へ
~ 目薬の変遷 1 ~


=目薬(めぐすり)の変遷=
このシリーズでは昔の薬局、薬屋で扱っていた品々を取り上げていますが、今回は身近な薬、目薬(めぐすり)の変遷をたどってみたいと思います。

(1)日本人と眼の病気(めやみ)

  • 前シリーズ『シッカロール』では梅雨時から夏場にかけての高温多湿、そして雨の多い気候を我国の風土の特徴の一つとして挙げましたが、漢方的に見れば血の道という観点からは乾燥した大陸では四物湯をはじめとする津液(しんえき)を補う地黄剤がベースになるのに対して、多湿な我国では当帰芍薬散などの利水剤の証(:水気体質。)が多い事なども気候風土の体質に与える影響としてとらえることが出来るかと思われます。

  • 一方江戸期から現代にいたるまで、日本人の病の特徴の一つに日本人は目が悪い、眼病(めやみ)が多かった、多いことがあげられます。
    ごく最近まで欧米人から見ると、日本人の旅行者の典型はメガネに出っ歯でカメラを首から下げた背の低い…でした。

  • また60年前の太平洋戦争の当初、真珠湾の空襲は日本人は目が悪く飛行機の操縦が出来ないからドイツ人パイロットが飛行機を操縦していたと一部の米国人は思っていたようです。
    そしてかくも日本人が目が悪い(、近視が多い)理由は、日本人がウサギ小屋のような小さな家に住んでいるからという説がありますが、日本人に限らずとも日本に来日した外国人も数年も日本で暮らしていると目が悪くなって、さらにもう一つの日本人の特徴的な病というか愁訴である肩凝りを訴えるようになるとのことです。

(2)江戸時代の医療と眼病(めやみ)

  • 以上は俗説であるとしても、江戸時代の安永4年(1775年)に長崎の地を踏んだスウェーデンの植物学者・医学者のツルンベルクは『日本紀行』の中で日本人に眼病(赤眼、爛眼)が多発している原因を炭の煙(;囲炉裏の薪炭の燻煙)と便所(トイレ)の臭気・悪ガスにあるとしています。
    また幕末の安政4年(1857年)から文久2年(1862年)まで在日したお雇外国人医師のポンペも日本人に眼病がきわめて多いことを指摘、『日本滞在見聞記』で長崎においては住民の大体8%が眼病に患っているとし、日本人に盲人が多いのは治療法の誤りにもとづくものであるとしています。

【病草紙】(鎌倉時代)(国宝絵巻)
病草紙
  • 第12回で書きましたように痘瘡や麻疹などの熱病で若くして失明に至れば座頭(剃髪の盲人)になって鍼や按摩を生業とするか、瞽女となって遊芸で生計をたてたわけですが、失明には至らずとも過食の現代では想像もつかない程栄養状態が低かったり偏ったり、また衛生状況、環境の悪かった(;舗装道路、アスファルトはもちろん日本の都市は石畳も少なく風が吹くと土埃が舞う道路事情…。)そんな時代には、鳥目(夜盲症:ビタミンA不足。)や突き目、涙目、はやり目、かすみ目、そこひ(白内障、緑内障。)などの眼病で庶民は苦しんだわけです。
【瞽女の新聞記事】(毒消し売りの社会史)
平成17年(2005)4月25日 読売新聞
瞽女の新聞記事
モース・コレクションに登場する1890年頃の瞽女の写真


モース・コレクションに
登場する1890年頃の
瞽女の写真

  • 江戸時代には正式な統計というものは当然ありませんが、幕末にはすでに開業していたであろうと推測される明治7年における医師数の統計によりますと、幕末には約2万8000人の医師がいたようで、明治3年の我国の人口は約3200万人であることから計算しますと幕末の医師数は人口10万人あたり80人~90人近い数であったと推測されます。
    これは現代からみてもかなりの数と思われますが、さらに都市においては江戸では医師数は人口400~500人に一人、大阪では人口1000人に一人と推測され大都市に医師が集中しておりました。 とはいえ数が多い事がすなわち医療の質やレベルが高かったことを意味する訳ではなく医師の質は玉石混交といえました。

  • 江戸時代の医師は身分的には宮中や大名達の治療をする御抱医者(御殿医)、町医者、田舎医者などに分けられましたが、庶民の治療にあたる医師のうち現代の内科に相当する医師は数的にも多い本道(医)と呼ばれる医師達で、その他専門科的に見ると戦国時代のいわば従軍医ともいえる金創医の流れをくむ外科、女医者(:女医のことではなく産婦人科医のこと。)、児医者(:小児科医)、眼医者などがおりました。

  • そのうち眼医者は眼科の専門は少なく本道医が掛持ちする場合が多く、それは栄養失調や疫病の後遺症など内科的疾患に由来する眼疾患が多かったためと推測されます。

    北斎漫画:江戸の医療風俗事典
    【北斎漫画】:江戸の医療風俗事典
    江戸期治療風景画
    【江戸期治療風景画】

    当時の代表的な眼科医書『錦嚢眼科秘録』をご覧下さい。

    【錦嚢眼科秘録】〔明和9年(1772年)出版〕
    錦嚢眼科秘録

    そして医師の集中していた都市においても医師の診療を受けられるのは武士階級や裕福な商人などが主であり多くの都市や地方の民衆はその恩恵の外における存在で、それらの民衆が病になった時にまず頼りにしたのは売薬を中心とする薬で、その他単味の薬草、薬種や民間療法などがありました。


(3)江戸時代の売薬目薬

  • 江戸時代の薬草、薬種を用いた民間療法的な眼病治療法には“突き目(:眼にゴミが入ったり、眼を突いた時。)には母乳を目にさしたり、杏仁をすりつぶして乳汁にひたして目にさしたりする。”“はやり目には正月かざりの裏白きざみの煎じで洗う。”“はやり目にはクコの根を煎じてその汁へ塩を少し入れて目を洗う。”“ただれ目には蚕の糞を胡麻の油に浸して2・3日してネバネバしたものを溶いてただれの上につける。”ものもらいには羽虫をとり、ものもらいの血をこれに押しつけて吸い取る。”などはじめ、“ものもらいには梅干しの肉、唐胡麻をすり合わせ臍の中に入れて紙を貼っておく。”など、この他にも多くのさまざまな治療法がありました。

  • 目薬というと今では点眼薬が主流ですが、目薬の変遷をたどりますと点眼をするための容器・器具の変遷をたどることになります。 つまり点眼をするための容器・器具、つまりガラスやゴムの発展なくして現在にいたる点眼薬の進歩は無かったとも言えます。
    江戸時代の売薬目薬には成分としては真珠や石決明-炭酸カルシウム、芒硝-硫酸ナトリウム、鳥賊骨-リン酸カルシウム、牡蠣、竜脳、辰砂、黄連などなど…から作られていたようですが、当時は点眼のためのガラス器具やゴムのスポイトなどの器具や点眼瓶はありませんでしたので、点眼薬というより洗眼薬ともいえるもので、洗眼、点眼のためさまざまな工夫がされていたようです。
    では当時の目薬の看板や、ポスター、効能書をご覧下さい。

    (“雲切”の言葉が使われていますが、点眼をすると雲が切れて晴れ間があらわれるような効き目があるとの意味です。)
    (代表的な目薬に、京都で作られ近年まで使われていた『井上目洗薬』(:写真後掲載)がありますが、その使い方は貝殻の
     なかにはいった、ガーゼのような小さい包みにつつまれた薬-後述-を猪口に振りだし、その液を目に垂らすかもしくは
     木綿の手ぬぐいなどに浸して洗眼するものです。また『真珠散』には小鳥の羽を細工して、それで点眼する方法や、天然
     植物のストローで目に吹き付けるなどの方法も書かれています。 下記 赤○枠の中)

    御めあらひ薬
    【御めあらひ薬】看板
    (江戸期)
    むしばのくすり めのくすり
    【むしばのくすり】
    【めのくすり】ポスター
    (江戸期)
    五霊膏看板



    :寒水石、炉甘石、
     竜脳、黄連などを
     白蜜で練った練り薬。
    【五霊膏看板】
    【各種効能書】
    各種効能書


〔参考文献〕
・東京堂出版 江戸の医療風俗辞典
・保育社 国宝絵巻

~つづく~


©一般社団法人北多摩薬剤師会. All rights reserved.
190-0022 東京都立川市錦町2-1-32 山崎ビルII-201 事務局TEL 042-548-8256 FAX 042-548-8257