薬と歴史シリーズ 12
~ 目薬の変遷 3 ~=目薬(めぐすり)の変遷=
このシリーズでは昔の薬局、薬屋で扱っていた品々を取り上げていますが、今回は身近な薬、目薬(めぐすり)の変遷をたどってみたいと思います。
(4)明治維新、文明開化以降の売薬目薬 〈そのII〉『精錡水』
- 前項〈そのI〉では明治の文明開化以降も江戸期の『目洗薬』の形態を引き継いだ目薬を紹介しました。
〈そのII〉では成分はもちろん容器の発達により登場した『精錡水』に代表される点眼薬をご紹介します。
- まずご紹介します岸田吟香藥房製造の『精錡水』とは日本初の洋式目薬で、ガラス瓶に入って眼に滴下するという現在の点眼薬の原形ともいえる目薬です。製造していた岸田吟香(ぎんこう)翁は、ヘボン(平文)氏とともにローマ字を考案、その他「時事新報」を創刊したり薬局を経営して当時の藥業界の重鎮となるなど多才なマルチ人間ですが、ちなみにその四男が「麗子」像で有名な岸田劉生画伯です。
ヘボン(平文)氏
【「麗子」像】
- 上記のヘボン(平文)氏とはもともと米国の宣教師で眼科医でもあったヘップバーン氏のことで、『精錡水』は江戸の末期に横浜で開業していたヘップバーン氏の施療所で治療を受けた眼病を患った岸田銀次(吟香)氏がその処方内容をヘップバーン氏より伝えられたことに始まります。
- 『精錡水』の名の由来はその主成分である硫酸亜鉛を中国語では“シンキ”と発音することから付けられた名前ですが、その容器は日本初のガラス製容器で、しかも液漏れを止めるためにコルク栓を用いた点も我国初の試みでした。
また明治4年(1871年)頃から当時のマスコミ紙面に宣伝広告を掲載した点でも先覚者とも言える試みでした。
- ではコレクションの中から初期の『精錡水』の効能書と、やや年代の下った『精錡水』とその効能書をご覧下さい。
これらの効能書によりますと『精錡水』は当初は毛筆を用いて眼に滴下する方法がとられれていたようですが、その後は点眼管にて点眼(;つまりガラス管を指にて開閉して滴下するやり方。)していたようです。
コレクションの中の『立山様目薬』『壮眼水』『岩間水』などは毛筆を用いて眼に滴下する方式の点眼薬です。 (参考:『トラホーム水』の納書) |
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『立山様目薬』 |
『壮眼水』 |
『岩間水』 |
『トラホーム水納書』 |
〔付記;岸田吟香翁はまた銀座に楽善堂藥舗を開設し、「補養丸」「鎭溜飲」「穏通丸」(“楽善堂三薬”と称して いました。)を販売していました。 楽善堂藥舗のコレクションとして楽善堂の店内看板と、三薬のうち「鎭溜飲」と「穏通丸」があります。 |
【楽善堂引札】、【楽善堂薬報】、【楽善堂看板】、『穏通丸』『鎭溜飲』を参考にご覧下さい。〕 | |
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精錡水の類似薬の板看板
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