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石田散薬の研究 ~ステップ1 古式にのっとった製造法の理解と準備~

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~原典を読む~

実験製造の基本にする原典は、土方家に伝わる石田散薬の製造法を記した「製造認可証」です。
公的機関に提出した認可証書ですから、ここに書かれている製造法は「再現性がある」つまり「誰でも、そこに記載された方法を使うことで、同一効果の製品が製造できる」と認められたものであるということになります。言い伝えや口伝ももちろん大事ですが、この原典の手法をなぞることが、製造の近道と考えられます。

牛額草壱貫目、日夫乾燥スレハ百目ニ減量、○而シテ之ヲ黒焼セルモノ鉄鍋ニ入レ清酒壱合ヲ簓(ささら)ニテ適時散布、取リ出シ再ヒ乾燥セシ○薬研ニ掛ケ粉末トセルヲ百包ニ分スル事



~原材料を選定するにあたって~

江戸時代後期の民間薬である石田散薬は、牛額草(牛革草、ミゾソバ)というタデ科の植物から製造します
原材料となるのはこの「牛額草」と、「日本酒」のみで、あとは全て加工作業になります。
「牛額草」は、「土用の丑の日に浅川(多摩川の支流で、歳三の住んでいた石田村から徒歩ですぐの川です)で採ったもの」限定のようです。 使用部位は全草。根は外します。
「日本酒」は、創薬当時の製造法で作られたもの、つまり江戸時代の製法の日本酒ということになります。



~乾燥の時間の問題~

採取した草の乾燥時間に関しては、正確な日数の記述がなく、「一年間乾燥させた」という説まで存在していました。
原書にある記述は「採取した牛額草を、目方が十分の一になるまで乾燥させる」ですから、乾かした時間ではなく、乾燥重量の度合いにて「乾燥の完結」とするべきだと考えました。そのために、採取後と、ある程度乾燥する三週間後とに重量を測定することにしました。そこで乾燥度合いが足りなければ、更に乾燥します。



~乾燥した草を細かく刻むには~

乾燥した牛額草をこまかくするには、どのような器具を使ったのでしょう。
土方家に保管されている石田散薬製造器具には、「ハサミ」に相当する器具が存在しません。 「特別な」器具ではないのでしたら、それは当時の農家なら必ずあったと思われる道具でしょう。 たとえば「鉈(なた)」などを用いたと考えられます。



~通常とは異なる黒焼き~

いわゆる焙烙(ほうろく。素焼きの平たい土鍋のことです)を使った黒焼きには、2つのパターンが考えられます。 「蒸し焼き」「炙り焼き」です。 一般的には、蒸し焼きが「黒焼き」と言われます。 この場合は空気が入らないように密封した中に入れなければならないので、色加減などを見ることはできません。 石田散薬の「黒焼き」は、色加減をみなければならない点などから、後者、「炙り焼き」によって黒めに色を変えるということだと考えました。

資料本「新撰組のふるっさと」によると、土方康さんに聞いた作り方の一部で「火が底の方に移って燃えることがあり、それを吹き消すのに酒を吹いた」とありましたので、「原材料が見える状態で黒焼きにした」と考えられます。

ここでポイントになるのは、「黒くする」ということが、「焼き焦がす」ということではない、ということです。 完全に焼き焦がしてしまった植物は灰化してしまい、そこに薬効は期待できません。 単なる「苦い灰」となってしまっては、「薬」とはいえません。 元が植物ですから、せいぜい褐色から黒褐色程度の焼け具合でなければ灰化していることになります。 土方家等の口伝でも「焼き方が難しい」とされる理由は、そのあたりにあると思われます。 実際、製造過程でずいぶんと出来上がりの色が異なるものも誕生していました。
土方家に残されている「石田散薬」は、完全に黒い粉末です。
製造されるべき「石田散薬」は、完全に「黒」くなければならないのでしょうか。悩みどころです。
そこで考慮しなければならないのが、「土方家に残されている薬は、製造後50年以上の歳月が経過している」という点です。 朽ちた植物は、おおむね酸化等していくことで自然に黒くなっていきます。 「最初から、完全に真っ黒い色をしていた」と、限る必要はないのです。 黄色いバナナでさえ黒くなるのですから、茶色から黒の間ぐらいの色でも、最終的に黒くなりえます。
明治政府が民間薬の統制排除を行った際に「まがいもの」として廃止された「黒焼き」の薬は数多くありますが、石田散薬がその時点で「民間薬」として正式に認められた事実(*)から、「完全な焼き焦がし」的な黒焼きにはしなかっただろうと思われます。 従って、ここは「黒」という色にはこだわらず、原書に則り、いわゆる正式な「黒焼き」に近い製剤を作ることを「石田散薬(復刻版)の製造」とすることにしました。

(*)正式に認められた理由に隠されたドラマ?

『陸軍軍医総監 松本良順が之を試用し、その効果の卓越なることを認めた。』

石田散薬が明治の薬品淘汰時代を生き延びた「効能の根拠」は、上記です。(許可証に明示されています)許可証写真


新撰組の後援者であった松本良順が、明治政府の陸軍軍医総監であり、彼が効能を保証したことにより認められたようです。 ドラマならば「交流のあった新選組への鎮魂歌として認めた」と人情味あふれる浪漫にしたいところです。

しかし多くの黒焼きが廃止された状況下、そのうえ賊軍の将の使っていた薬を、何の根拠もなく保証するのは軍医総監であってもかなり難しいと考えられます。

果たして、当時最高の実学西洋医であった松本良順の胸中や、いかに。

参考  松本良順(松本順)の書いた本

松本良順こと松本順の書き記した医術書があります。

タイトルは『通俗医療便方』。明治25年3月刊行の書物です。

内容は当時の医学レベルを簡単に書き記したものなので現代の医学書と比べると少し寂しいのですが、その中に、『埋没させてしまうには惜しいので紹介する』といった趣旨の【民間薬を紹介するコーナー】があります。

薬の名前と効能、使い方が10種類近く列挙されています。

さっそく石田散薬を探してみました。

・・・ありませんでした。

残念。

さて、この『通俗医療便方』の刊行から8ヶ月後、待望の第二版が刊行されました。

その名も『新撰医療便方』

新しい薬が加わっているかもしれません。

さっそく石田散薬を探してみました。

ありませんでした。

ためしに「切り傷」の項目を見てみると『白雪膏を用いなさい』と書いてありました。

パップ剤の紹介として『米に水を加えて鍋で熱くして、手ぬぐいか木綿布に塗布してつくる』とありました。石田散薬出てきません。

それから7ヶ月後、今度は松本良順が軍医総監をつとめたことのある陸軍から一冊の本が刊行されました。 本の名称は『救急概要』。(陸軍医務局第一課 遍。明治26年4月)

兵隊さんたちの医療関係の記述がとてもよくまとめられている本です。

石田散薬を松本良順が軍で採用していたならば、その医療マニュアルにはきっと載っているはずです。

そう思って探してみましたが、これにもありませんでした。

『傷には石炭酸水二号を用いること』とのことです。

大量生産のできない一子相伝の家伝薬ゆえ、載せることができなかったのでしょうか。とても残念です。



~簓の存在~

石田散薬製造器具に特徴的な器具は、「簓(ささら。先端が細かく分かれた棒状のもの)」とみられる道具です。 これは、おそらく「酒」を振りかける際に用いられたと考えられます。 この「簓」二~五振り程度で振り掛けられる分量を想定し、製造の際の振り掛ける分量を決めました。

残されている石田散薬製造道具を、それぞれどのように使ったかという推測は、以下のとおりです。

 薬箱  一服分ずつにわけた石田散薬の保存用
 箱   乾燥した牛額草の保存用
 簓   酒の散布、散らばった散薬の掃除など
 薬匙  一服分量を測るためのめやす
 薬研  黒焼きにした牛額草のすりつぶし用
土方家に伺ったところ「竹で酒をふりかけていた」というお話もありました。竹の簓のことでしょうか?



~石田散薬販売道具の重み~

大きな薬箱に薬を詰め込み、剣術道具の木刀を持って旅するとどれほど重いのでしょうか。
まず、薬箱。竹を編んで、漆で仕上げたものを大きな風呂敷で包んで担いだそうで、意外と軽いようです。 木刀も近藤勇の木刀とは違いますから、それほど重くはありません。 1~2kgくらいでしょうか。しかし、問題は石田散薬そのものです。 何ヶ月に1回しか卸売りにいかないのですから、数kgの重みを背負っていたと考えられます。 それをかついで歩いたのですから、案外と、重労働です。

歳三は石田散薬以外にも薬の販売をしていたようですから、更にプラス。 そして旅の支度がこれに加わります。 「酒屋の老人(特定の一人ではなく、目付役をしていた近所の男衆のことだと思われます)」とともに行脚したといわれる歳三ですが、この重さを日々担いだことが鍛練になったのは間違いないでしょう。


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